鈴木です 「君の名前で僕を呼んで」
昨日、2回目を観てきた(恥ずかしながら1度目は画と俳優陣の美しさを追うことで精一杯だった、、)ので感想や考察を書きます。
◯あらすじ
1983年夏、北イタリアの避暑地。17歳のエリオは、アメリカからやって来た24歳の大学院生オリヴァーと出会う。
彼は大学教授の父の助手で、夏の間をエリオたち家族と暮らす。はじめは自信に満ちたオリヴァーの態度に反発を感じるエリオだったが、まるで不思議な磁石があるように、ふたりは引きつけあったり反発したり、いつしか近づいていく。
やがて激しく恋に落ちるふたり。しかし夏の終わりとともにオリヴァーが去る日が近づく……。
(公式サイトより引用)
※ネタバレあります。また、時系列や台詞など、もしかしたら違うところもあるかもしれません。見逃してください。。
◯感想をストーリーに沿って。
⑴エリオのオリヴァーへの視線
この映画の見どころのひとつは、主演のティモシー・シャラメ演じるエリオの視線の動きと言っても良いんじゃないか!ってくらいには見応えがあった。
映画は、主人公エリオとその女友達のマルシアがエリオの部屋からオリヴァーの到着を見届けるシーンから始まる。
車の音に気付き、「侵略者だ」とふざけるエリオ。
車から出てきたオリヴァーを一目見て、
「自信家っぽい」と小馬鹿にした感じで第一印象をマルシアに言い、笑う。
何日かをオリヴァーと共に過ごした後も、
「彼の(英語の口癖の)“later”って、横柄だよね」とこぼす場面も。
その一方で、お父さんが毎年インターン生に仕掛けるテストの最中にふと見せる不安と期待が入り混じったようなオリヴァーへの視線や
パーティーに行きオリヴァーが女の子と親しげに踊っているのをやや不満げに見守る視線、
オリヴァーに街を案内した後、「じゃあ」と置いていかれてしまった後しばらく彼を見つめたまま呆然とするような表情と視線、
他にも、父さん・オリヴァーの研究フィールドトリップにくっついていったときも
オリヴァーのうしろを歩きながら嬉しそうに盗み見していたり。
こんな風に、エリオの視線が豊かに揺れる揺れる。。
視線の端っこには常にオリヴァー。
「認めたくはないけれど、どこか気になって仕方がない」エリオの心が、くるくる変わる瞳に映されているかのよう。
そんなエリオの視線は、オリヴァーと気持ちが通じ合ったあとはこうなる。
オリヴァーを正面から真っ直ぐ見られるようになっただけじゃなくて、もう、表情も全く違う。これにはエリオの内面の変化や成長も伴っていると思っていると思います(⑶で詳しく書きます)。
そして、、
この汽車の別れのシーンが個人的に素晴らしかった。
今までのエリオの視線の多さに反し、このシーンの彼は後ろ姿のみ。どんな視線・表情をしているのかは全く分からないのです。。。が、それが物凄く良かった…
心の底ではどんな顔してるのかみたい気はするものの、見えないからこそあの別れの後ろ姿の切なさが引き立つ。これが引き算の美しさだ…と、唸った。。
⑵オリヴァーのエリオへの視線
映画の序盤はほとんど⑴のエリオのオリヴァーへの視線が多いことから、序盤では私たちもあまりオリヴァーの視線を見ることができない。そもそも、オリヴァーはあまりエリオのことを見つめてもいない。
そんなオリヴァーの視線を補う要素としてあるものは、彼の社交的な性格だったり、美しい筋肉質で大きな身体や金髪だったり。それくらい。
前半にオリヴァーの視線が少ない、というかほぼない?ことのひとつには、オリヴァーの出生や過去が謎めいていることも絡んでいる気がする。
オリヴァーのエリオへの唐突ともとれる「優しいことを言ってくれるね」という言葉や、「(僕が同性愛者だと知ったら)僕の両親なら即矯正施設行きだ」という言葉も、
違う国アメリカからやって来たオリヴァーのこれまでが、明るく社交的なキャラクター通りという訳ではなさそうだ、ということを暗示しているのでは。
そんな彼の視線は、特に二人が交わりあった後から大きく変化し、オリヴァーのエリオへのまなざしが一気にその存在感を増してくる。
(↑このとき、「あ、オリヴァーってこんな顔するんだ。」とグッときたのは私だけではないはず。)
それらは、エリオが出会って間もない頃に“横柄だ”と表現したようなものではなく、むしろどこか不安げで刹那的でもある。
だんだんと、オリヴァーは「追われる側」から「追う側」へと変化してゆき、しまいにはエリオには「昨日のこと(交わったことを)後悔していないか」と心配そうに口に出して尋ねるシーンも。
オリヴァーは、キャラクター込みで第一印象が“自信家”だっただけに、だんだんと彼が繊細になっていくその推移が、人を好きになってしまったときのどうしようもない感じを素直に表していて、それがとても純粋で。
観ていて、そうなってからのオリヴァーが私はとっても好きになった。
恋愛には、直接交わされる言葉はもちろんだけれど、恋や愛が実るまでの間には想い人には届くことのない、交わされない言葉が沢山あって、それらを代弁するもののひとつが視線であって。
もどかしい気持ちや気づいて欲しいような気づいて欲しくないような気持ち、それらが全部目に現れると言っても過言ではないと思っている。ので、この映画ではそれらの視線をひとつひとつ汲み取って綺麗に映像化してくれたので、それがとても納得がいった。
⑶エリオの変化
⑴⑵とも被るけど。。
エリオは、読書をしたり曲を作ったりするのが好きで、友人との集いにも気が向かないと行かないこともあるような、内気な性格。
映画では、エリオの言葉を代弁するかのように、オリヴァーへの高まる気持ちが良くピアノで生き生きと表現されている。
オリヴァーへの気持ちをピアノやギター、メモに書いた言葉などにぶつけていく姿も印象的。
↑アメリカのザ・ティーンエイジャーの女の子の日記みたいなかわいいメモ。
エリオとオリヴァーが街に出かけた際、
オリヴァーが前を歩いて街の人たちに親しげに挨拶をしたり、一緒にポーカーを楽しむ一方で、エリオは挨拶もできないし、自分から特別親しくない人の輪の中に入っていくことはできない。
遠くからオリヴァーを見守り、「いつの間にそんなに仲良くなったの?」と聞く。自分にはそんなこととてもできない、とでも言うかのように。
そんなエリオの成長ぶりがよく分かるシーンがある。
オリヴァーと結ばれた後に出かけた先で、
自分から「喉乾いた?」と尋ねながら前を歩き、見知らぬ住人に「お水をくれませんか」と話しかけるのだ。
これが、⑴でも触れたエリオの注目すべき変化である。
さらには、そんな言葉が少なかったエリオが、「告白すべきか 命を絶つか」と考えた末に、オリヴァーに「沈黙が苦痛だ 話がしたい」とまで自ら伝えるようになる。これって物凄いことだと思うのです。
「自信がない」と言っていた自分の殻にこもりがちだった彼が、自ら自分の考えや言葉を外に出したいという欲求を抱くようになることが。
では、、具体的に何が彼をそんな風に変えたのか?と考えた時に
⑷「君の名前で僕を呼んで」
に辿り着くわけです。
正直、この要素がなければ「単純に美しい純愛物語」で完結してしまっていたような気もする。
タイトルにもなっているくらいなのでオリヴァーがエリオに囁くこの言葉の意味を自己流で深掘りします。
①彫刻
まず、映画のオープニングや考古学の研究で印象的だった彫刻。
「官能的で大胆すぎるともいえるカーブが見る者の欲望を誘発する」という感じのコメントをお父さんがしていた男性の彫刻は、
24歳という年齢で、まさに今、美しさの絶頂にいるオリヴァーのよう。
お父さんの言葉をそのまま当てはめれば、17歳という多感な時期にいて、自身の性的なエネルギーを持て余していて、なおかつ、それをどう処理したら良いのかもよく分からないエリオにとって、セクシュアリティをそのまま体現したようなオリヴァーが、誘発装置になったと受け取れる。
更に彫刻でもう一つ印象的だったのが、フィールドトリップで海の底から発見したこの彫刻。
スライドショーで見ていたものよりもやや若く、あどけないような雰囲気が残るこちらの彫刻は、一方でエリオを象徴しているのでは。
このフィールドトリップの前にエリオのやきもちのせいで何となく険悪な雰囲気だった二人は、この彫刻がきっかけで仲直りをする。
この彫刻がバラバラの状態で見つかっていることにも注目で、「海の底に沈んでいた壊れて離れてしまっていたものが一つになる」=「結ばれるべき二人が二人の気持ちを通じあわせはじめる」ことの暗喩ともとれる。
さらに、この日「エリオ!」「オリヴァー!」と、互いの名を呼びあうシーンが挿入されていることも、のちの「君の名前で僕を呼んで」への布石。
モチーフとしてこのような彫刻が使われたことには、オリヴァーが「変化し続けながらも同じであるということ」と評したように、時代を幾度超えていっても、それが普遍的である、ということで「愛」と共通するからなのかな。
②エゴイスティックに自身を相手に重ねて追いかけるということ
①でオリヴァーが美しさを全うしている、美をそのまま体現したような象徴的な存在だと説明したが、同時にそれは「今いる場所を過ぎれば衰えてゆくのみ」ということも意味する。
(ラストシーンのお父さんの言葉にも、「身体はのちに誰も見つめてくれなくなる」というものがある)
たまに見せるオリヴァーのどこか刹那的な視線も、自身でそのことを理解しているからこそなのでは。
だからこそ、自分よりも若い17歳のエリオに、どうにかして自身を重ね、求め、エリオにも自分自身にも縋り、最後の美しい自分としての恋愛をおそるおそる確かめながら噛み締めている様子。そんな感じがした。
一方でエリオはというと、⑶で書いた通り、内向的で自信がない。友達もいるけれど、一人で何かに没頭するのが好き。
そんなエリオの前に現れたオリヴァー。社交的で明るく、誰にでも挨拶ができて、すぐに打ち解けられる。身体は大きく筋肉質で健康的。まさに自分とは正反対で、自分が欲しいものすべてを持っているような男。
憧れからくる嫉妬心で最初は反発しようとするものの、徐々に彼を欲し、同時に、エリオもオリヴァーに自身を投影するようになっていく。また、そうすることでエリオの内面やキャラクターも微妙に変化・成長していく。
このシーンがまさにその象徴で、逆さに映った二人の横顔、そして囁かれる「Call me by your name and i'll call you by mine.」という言葉。そして、呟かれる「エリオ」「オリヴァー」という言葉。
二人が身体で交わることも勿論だけれど、精神的にも溶け合って一つにいくことが決定的に分かる。
互いに向かって自分の名を呼ぶこと。それは酷く利己的なことにも思える。
それでも、「parce que c'était lui parce que c'était moi (それは私だったから。それは彼だったから。)」という言葉のように、
お互いに「その人」しか自分のなかで欠けていたところに当てはまる存在はいなくて、
お互いがいてこそやっと自分が生きる世界に対峙できるようになるのだ、と考えられる。
別れの汽車でオリヴァーを見送った後のエリオが暫く駅でひとり動けず、お母さんに迎えを頼まなければ帰れないほど沈み込んでしまっていたことも、
「一度ひとつに完成した自分の心がばらばらに引き裂かれてしまう」感覚を思えば頷けるし、私も一緒に汽車を見送りながら泣いた…。
他にも、「僕だけの場所だ」とエリオがオリヴァーを秘密の場所に案内することも、二人が融合してひとつになっていることを意味していると思う。
ここの草むらであの美しい初キスも起こったので。
二人が最後に一緒にいった旅でも、ずっとお互いのことを自分の名で呼んでいたのも印象的。
ちょうどエリオの髪で、実はオリヴァーの顔が見えていないということが、二人が二人で一人、ということをこのポスターからも読み取れるので、素晴らしいと思いました。
⑸エンディングについて
夏が終わり、オリヴァーが去っていき、冬になってハヌカの時期にかかってくるオリヴァーからの電話。
エリオは「なんとなく2年くらい続いてた相手と来年結婚するかも」とオリヴァーから告げられる。
電話越しに、エリオはオリヴァーに「エリオ」と呼ぶと、オリヴァーは「オリヴァー」「何一つ忘れない」と告げる。
夏の間のオリヴァーの言葉に、「君には何一つ後悔してほしくない」というものがあったが、これはこのことを暗示していたのかもしれない。
お父さんの言葉の、「知らぬ間に心が衰えてしまう」ように、若い、アプリコットのような時期が過ぎゆくうちに、世のいう常識などにみずみずしい心が殺されていってしまうことを。
こう考えると、この物語は
・お父さん「経験することなく、諦めてしまった人」
・オリヴァー「経験し、諦めてしまった人」
・エリオ「経験し、これからを選べる人」
という三つの立場からも考えられるのです。
それにしても、あの長尺のワンカットエンディングは衝撃的に美しかったなぁ。
⑹その他
・彼の口癖の「later」って横柄だよねとエリオがイタリア語でいうが、それに対してお父さんは横柄だとは思わないな、とあえて英語で答える。それに拗ねながらも英語でかえすエリオ…など、家族間で交わされる言葉の豊かさ!純粋に感動したし、会話の内容以外にも、どの言語で話すかということも各シーンを彩る要素として確立していた点が良かった。
・街を案内したときにチラッとエリオが見ていた青いバスで二人が後に旅に出ることになったことも気付いて嬉しかった。
⑺まとめ
この人しかいないのだという相手に出会い、心も身体も愛して、それでもまた相手を求めて、更には互いに自分を相手に重ね合わせて呼び合う。
それがどんなに完璧でも、自分が「自分」を手に入れることは絶対にできない。手放してまた自分ひとりとして歩いていかなくてはいけない。でも、「何一つ忘れない」。それは「変化し続けながらも同じであるということ」。
だからこの映画の終わり方はとても潔くて美しかった。
こんな相手に出逢ったものなら、言葉を発したいと思っても、名前だけでも十分なのかもしれないな。
一人の少年と一人の青年の、そんな美しい過程をこの映画には観た。
おしまい