鈴木です
暇なので、「人はなぜ整形に否定的なのか」について考えてみた。
これだけ整形が普及してきた今でも、何となく世間に固定され続けているぼんやりとした概念として、「整形はよくないこと」という考えがある。
私自身もそれには同意見で、母親が「今度こそ天然だと思ったら、あの女優もやっぱり整形らしい」といえば「裏切られた!」と騒いだり。
それでも、「ではなぜ整形はいけないのか」と聞かれたら、これ、という答えが出ず、ずっとモヤモヤしていた。ので、つきつめて考えた末に私なりの答えに辿り着いた。
まず、整形は美しくなるためにするもの、という大前提がある。
整形をする人は、「自分がこうなりたい」っていう顔をデザインして、計画的にそれになる。確かな意思を持って。
つまり、整形後の自分の美しさを、しっかり自分で自覚しているということ。
そもそも美しさが何かって考えたときに、個人的には、、美しいということは大前提として、その上で本人が自身の纏ってる美しさに対していかに無自覚であるか、が大事だと思っていて。
外見を褒める時に、「ミステリアスな」っていう形容詞があるけど、その感覚もちょっと共通してる気がする。
自信に溢れている訳でもなく、ただただ不明な感じ。それは自分に対しても。
一方で、整形で成り立った美しさは全て意図的につくられたものだから、「無自覚さ」が一切ない。
むしろ、本人が思う美しさをただ見せられているだけ、という表現が適切な気がする。
整形でなくとも、例えば自撮り写真ばかりをあげている人をネットで見た時に無意識のうちにむけてしまいがちな一種の冷たい視線も、彼らにこの無自覚さが欠如していることが原因だと思う。
フィルターで良い自分を演出して、その中でも一番良い自分を選りすぐり、自分が納得できる自分を見てもらうためにインターネットに放出する作業。
こういう作為的な美しさに対して、無自覚の美しさは、「見られること」「美しいと思われること」を目標としていないものの、完全に「見られる」「美しいと感じられる」対象となってしまう。
さらにその過程は、本人が本人の美しさに無自覚だからこそ、自分自身の努力や計算によってではなくて、完全に「見る」他者たちによってつくられていくもの。
この他者の「見る」行為の積み重ねが、天然の美しさを更に手の届かないもの、絶対的価値のあるものへと強化するんじゃないか。って考えている。
だから、整った顔をした物心つく前の子供を見ると私はどうしても感動してしまうし、大人ならば、美しいな素敵だなって人ほどインターネットで自分を喜んで晒してなんかいない人であればあるほど見入ってしまうなぁ。
最後はちょっと整形とはちがう話になってしまったけれども(笑)、それでも根底にあるものとしては同じだと信じている。
すっぴん美人が良い、化粧は薄めが良い、っていう概念にも通じるものがあるのかもー。
言語化できてスッキリしたので寝る。
おしまい。