鈴木です 「親密さ」
濱口竜介監督「親密さ」を観て考えたことを書き連ねる の巻
※ネタバレややあり。引用している言葉は正確ではありません。ニュアンスは間違っていないはずです(覚えられない…)。
映画の感想や考察というより、映画を観て考えたこと、です。
◯言葉という選択
相手と対話をするときに、言葉という選択肢は当たり前のものとして存在する。感情や相手への気持ちを伝える手段として、時には口から発せられ交わされる会話として、また、時には手紙やメールなどの目に見える媒体として。
どのような形態であっても共通する点は、言葉はその存在が確かに確認できる状態にあるものだということだ。
だからこそ便利だし、的確に相手の意図することを理解できる。互いの仲を深めるための、あまりにも一般的なツール。
◯言葉への依存
その一方で、距離や隙間を埋めるために、つまり、「親密さ」を求めるあまり、人は言葉に頼り過ぎてしまうことがある。
相手のことを知りたいという思いが強ければ強いほど、相手が放出した言葉に本来込められたもの以上の意味を見出してしまい、それらが全てだと勘違いしてしまうのだ。
そうして拾い集めた言葉たちを繋ぎ合わせて、自分の中で相手はこういう言葉で編成された、こういう人なのだ、なぜならこの人はこの言葉を発したからだと、勝手に人物像を理由付けて作り上げてしまうのではないか。相手の本当の気持ちを置き去りにして。
◯言葉と思考は必ずしも一致しない
「親密さ」後編でとても印象的だったシーンがある。
別れた男女が後日話をしている。カフェかファミレスか、テーブルには水が注がれた二つのグラスがある。話の内容はなぜ別れるに至ったかというものだ。
ふとした時に、男が女に「今何を考えているのか」と問うと、女は「この水をあなたにかけたら何が起こるのかなって」と答える。
こんなふうに、頭で考ていること=思考と、口から出てくること=言葉とは、必ずしも結びつかないことは実は多い。それでも、人は言葉を信じることに対してあまりにも素直過ぎるのではないか、とさえ気付かされたシーンだった。
さらに驚いたのは、この後、男が女にいきなり水をふっかけるのである。立場が逆だとはいえ、思考がいきなり言葉を越えて現実になったとき、そのあまりの実直さに、私はただただ困惑してしまった。その時また、私は自分も日々いかに言葉をなぞって安心しているのかに気付いたのだった。ついさっき言葉を過信している、と自覚したばかりなのに。
◯敬語、という言葉
日本語の特徴でもある敬語。相手を敬い、敬意を示すために用いられる、社会で必須な特殊な言葉。通常、使われた相手は使った人に対して好感を抱く。つまりは、相手を不快にさせないための言葉。程よい緊張感も纏っている。
また、敬語のもう一つ持ちうる特徴としては、「他人に対して使うもの」ということ。特に相手を敬うわけではないものの、初対面の相手には敬語を使うことで、程よい距離感を保つために活用される。
こういったプラスの面に反して、マイナス面としては距離感がなかなかうまく掴めない、あるいは、近づけない、上手く打ち解けられない雰囲気が蔓延してしまう、という点が挙げられる。
なので、距離が近づいてきた、と感じた時に「敬語やめませんか」と提案する人や、最初から「敬語禁止で!」という人などもいる。
映画の中でも、印象的な敬語の使い分けが3つあったので記録しておきたい!
◯敬語の使い分け
一つめは、別れた途端に女が男に対し敬語を使い出し、また、それに気付いた男が敬語に対しつっかかるシーン。
女は「昨日までとは別人だから」と弁明するが、男にはまだ女が好きな気持ちが残っているので、女から明確な言葉ではないものの敬語を使うという行為によって距離を取られたことを感知したのだ。
二つめは、良平の妹が、初めて会った年上の佳代子に夢中で話しながら、ふいに「敬語やめますね」と一言だけ挟み、元の話題へ何もなかったかのように戻り話を続けるシーンだ。
しかも、その後もところどころ無意識のうちに敬語が入り混じった話し方を彼女はする。
距離を必死でつめようとする気持ちの表れがすごく自然で、関心してしまった。
三つめは、良平の妹が想いを寄せる相手に書いた恋文だ。いつものおちゃらけた、軽い感じとは違う、でも嘘のない素直な言葉が綴られてゆく。
あのシーンを回想しながら、自分も手紙を書くときはどうしても真剣に書くなぁとふと思う。口調も敬語あるいはかなり落ち着いたトーンを思い浮かべながら筆を進める。
手紙がそういうものだ、と認識しているからなのだろうか。だとしたら、言葉が媒体として形を纏うときには、その形の在り方によって、同じ思考から出発した言葉でも、最終的にはそれぞれ違う意味に行き着いてしまうのかも知れない。
◯言葉の受取手
更にそれだけではなくて、それぞれの言葉が誰に、どのように受け取られるかによって、言葉に込められた意味は大きく変形してしまうこともある。
暴力の詩のなかで、
「暴力は暴力が振るわれただけでは成立せず、暴力を振るわれた人がそれを暴力だと認識したときにそれは真の暴力となる」というものがある。
それは言葉も同様で、同じ言葉を浴びても、10人いれば10通りの受け取り方があっておかしくないのだ。
1人は100%発信した人の思考を理解したとして、別の1人はその元の思考とは全く違うものとして受け取ったとしても、それは自然なことなのだ。
こう考えたときに、自分が意図した思考を正しく言葉に変換して、それを更に相手が正確に理解してくれる、という言葉のコミュニケーションは、めちゃくちゃ難しいものなのでは。。と、思う。し、言葉には限界があるのだ、と痛感する。日々当たり前のように成立している会話たちが、ものすごい有難いことに思える。
◯言葉以外でも「親密さ」を深める
だから、言葉以外のものにもっと目を向けようと思った。
「今日会ったばかりだけれど、佳代子が自分のことを好きだということが何となくわかる」ように、言葉にしなくてもわかってしまうことは大抵私たちの生活の中で大切なことなのだ。
しかも、言葉にならない思考たちは、敬語だとか、一緒にいる年月だとか、そういう他の要因に一切影響されないで、ちゃんと届くものなのだから。例えば、別々の電車に乗って互いに大きく手を振ったり、バカみたいに投げキッスなんかしたりすることで。そのためには、正しい「想像力」が必要なんだなきっと。
◯変わることと変わらないこと
「変われ変われっていうけどさ、なんで変わらなきゃいけないんだよ」
「じゃないといっしょにいれないからだよ」
「俺だけかわらなきゃだめなのか?」
の喧嘩のシーンを受けて
言葉はそのまま変わらずに居続けることができるが、人は違う。例えば学生から社会人になればそりゃ~変わる。
だから、2年前にはぼそぼそと話していた良平も、軍隊に入ってきっちりとしたお辞儀をして、大きな声ではきはきと話すようになる。(ぼそぼそのときは本当にたまに何て言ってるのか分からなかった。。)
人は気づかぬうちに流れるように変わってしまうのだ。なぜか。それは変わらずにいようとするからこそなのかもしれない。
その場に居続けようとすればするほど、流れに反抗した分変形してしまう。
だから変わらないでほしいと願う気持ちは正しいし、あまりにもかなしい。誰もがおそらくそれは不可能だとわかっているから。
流れ、というのは環境の一言だけで定義できるものではなく、それは例えば日々交わされる会話や、テレビでたまたま目にして知ったニュースだったりする。
「変わってほしいんじゃなくて、ほんとうは、変わらないでほしいだけなのに。」とぽつりと呟かれた令子の言葉があまりにも的確で、私は苦しかった。。
◯精神と肉体
劇団員に令子が行う「あなたは私ですか?」インタビューの中で
「あなたが怖いものは?」という質問に対し
「周りから疎まれること。自分は流されやすいというか、良い意味でも悪い意味でも。」という答え。
「あなたが一番信頼出来る人は?」に対しては、
「兄貴。命を助けられたから。
自分も誰かにとってそんな人になりたい」という答え。
恐怖=精神的なもの、
信頼=生死
に結びついていると考えると、
あれ、逆じゃないのか?と思えてくる。
つまり、精神や思考の表れでもある言葉は信頼には値せず、寧ろ恐怖の火種ともなり、肉体に影響する生死問題は、恐怖ではなく救われることで信頼をもたらすものとして存在する、とこの劇団員は回答している。
肉体の恐怖がイメージとしては先行しがちだけれど、いかに根の部分では精神やそこから生まれる思考、そして精神から出発する言葉が影響力を持つのか、再確認した。
まだまだ書きたいことはこの映画については山ほどある…けど今日は?ここまで
キネカ大森からの帰りの電車で、何も考えずに乗り換え検索したらまさかの大森から京浜東北線、田町で山手線乗り換えで、ひとり電車の中でじんわりしてしまったのでした。。
完