鈴木日記

日本で一番多い苗字のひとのブログです。

鈴木です 「君の名前で僕を呼んで」

 

昨日、2回目を観てきた(恥ずかしながら1度目は画と俳優陣の美しさを追うことで精一杯だった、、)ので感想や考察を書きます。

 

 

 

◯あらすじ

 

1983年夏、北イタリアの避暑地。17歳のエリオは、アメリカからやって来た24歳の大学院生オリヴァーと出会う。

 

彼は大学教授の父の助手で、夏の間をエリオたち家族と暮らす。はじめは自信に満ちたオリヴァーの態度に反発を感じるエリオだったが、まるで不思議な磁石があるように、ふたりは引きつけあったり反発したり、いつしか近づいていく。

 

やがて激しく恋に落ちるふたり。しかし夏の終わりとともにオリヴァーが去る日が近づく……。

 

 

(公式サイトより引用)

 

 

 

 

 

 

※ネタバレあります。また、時系列や台詞など、もしかしたら違うところもあるかもしれません。見逃してください。。

 

 

 

 

◯感想をストーリーに沿って。

 

 

⑴エリオのオリヴァーへの視線

 

この映画の見どころのひとつは、主演のティモシー・シャラメ演じるエリオの視線の動きと言っても良いんじゃないか!ってくらいには見応えがあった。

 

 

 

 

映画は、主人公エリオとその女友達のマルシアがエリオの部屋からオリヴァーの到着を見届けるシーンから始まる。

 

車の音に気付き、「侵略者だ」とふざけるエリオ。

 

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車から出てきたオリヴァーを一目見て、

「自信家っぽい」と小馬鹿にした感じで第一印象をマルシアに言い、笑う。

 

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何日かをオリヴァーと共に過ごした後も、

「彼の(英語の口癖の)“later”って、横柄だよね」とこぼす場面も。

 

 

 

 

 

その一方で、お父さんが毎年インターン生に仕掛けるテストの最中にふと見せる不安と期待が入り混じったようなオリヴァーへの視線や

 

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パーティーに行きオリヴァーが女の子と親しげに踊っているのをやや不満げに見守る視線、

 

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オリヴァーに街を案内した後、「じゃあ」と置いていかれてしまった後しばらく彼を見つめたまま呆然とするような表情と視線、

 

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他にも、父さん・オリヴァーの研究フィールドトリップにくっついていったときも

 

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オリヴァーのうしろを歩きながら嬉しそうに盗み見していたり。

 

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こんな風に、エリオの視線が豊かに揺れる揺れる。。

視線の端っこには常にオリヴァー。

 

「認めたくはないけれど、どこか気になって仕方がない」エリオの心が、くるくる変わる瞳に映されているかのよう。

 

 

 

 

 

 

 

そんなエリオの視線は、オリヴァーと気持ちが通じ合ったあとはこうなる。

 

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オリヴァーを正面から真っ直ぐ見られるようになっただけじゃなくて、もう、表情も全く違う。これにはエリオの内面の変化や成長も伴っていると思っていると思います(⑶で詳しく書きます)。

 

 

 

 

 

そして、、

 

 

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この汽車の別れのシーンが個人的に素晴らしかった。

 

今までのエリオの視線の多さに反し、このシーンの彼は後ろ姿のみ。どんな視線・表情をしているのかは全く分からないのです。。。が、それが物凄く良かった…

 

心の底ではどんな顔してるのかみたい気はするものの、見えないからこそあの別れの後ろ姿の切なさが引き立つ。これが引き算の美しさだ…と、唸った。。

 

 

 

 

 

 

⑵オリヴァーのエリオへの視線

 

 

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映画の序盤はほとんど⑴のエリオのオリヴァーへの視線が多いことから、序盤では私たちもあまりオリヴァーの視線を見ることができない。そもそも、オリヴァーはあまりエリオのことを見つめてもいない。

 

そんなオリヴァーの視線を補う要素としてあるものは、彼の社交的な性格だったり、美しい筋肉質で大きな身体や金髪だったり。それくらい。

 

 

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前半にオリヴァーの視線が少ない、というかほぼない?ことのひとつには、オリヴァーの出生や過去が謎めいていることも絡んでいる気がする。

 

オリヴァーのエリオへの唐突ともとれる「優しいことを言ってくれるね」という言葉や、「(僕が同性愛者だと知ったら)僕の両親なら即矯正施設行きだ」という言葉も、

 

違う国アメリカからやって来たオリヴァーのこれまでが、明るく社交的なキャラクター通りという訳ではなさそうだ、ということを暗示しているのでは。

 

 

 

 

 

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そんな彼の視線は、特に二人が交わりあった後から大きく変化し、オリヴァーのエリオへのまなざしが一気にその存在感を増してくる。

 

(↑このとき、「あ、オリヴァーってこんな顔するんだ。」とグッときたのは私だけではないはず。)

 

 

 

 

 

それらは、エリオが出会って間もない頃に“横柄だ”と表現したようなものではなく、むしろどこか不安げで刹那的でもある。

 

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だんだんと、オリヴァーは「追われる側」から「追う側」へと変化してゆき、しまいにはエリオには「昨日のこと(交わったことを)後悔していないか」と心配そうに口に出して尋ねるシーンも。

 

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オリヴァーは、キャラクター込みで第一印象が“自信家”だっただけに、だんだんと彼が繊細になっていくその推移が、人を好きになってしまったときのどうしようもない感じを素直に表していて、それがとても純粋で。

 

観ていて、そうなってからのオリヴァーが私はとっても好きになった。

 

 

 

 

 

 

 

恋愛には、直接交わされる言葉はもちろんだけれど、恋や愛が実るまでの間には想い人には届くことのない、交わされない言葉が沢山あって、それらを代弁するもののひとつが視線であって。

 

 

もどかしい気持ちや気づいて欲しいような気づいて欲しくないような気持ち、それらが全部目に現れると言っても過言ではないと思っている。ので、この映画ではそれらの視線をひとつひとつ汲み取って綺麗に映像化してくれたので、それがとても納得がいった。

 

 

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⑶エリオの変化

 

⑴⑵とも被るけど。。

 

 

エリオは、読書をしたり曲を作ったりするのが好きで、友人との集いにも気が向かないと行かないこともあるような、内気な性格。

 

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映画では、エリオの言葉を代弁するかのように、オリヴァーへの高まる気持ちが良くピアノで生き生きと表現されている。

 

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オリヴァーへの気持ちをピアノやギター、メモに書いた言葉などにぶつけていく姿も印象的。

 

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↑アメリカのザ・ティーンエイジャーの女の子の日記みたいなかわいいメモ。

 

 

 

エリオとオリヴァーが街に出かけた際、

オリヴァーが前を歩いて街の人たちに親しげに挨拶をしたり、一緒にポーカーを楽しむ一方で、エリオは挨拶もできないし、自分から特別親しくない人の輪の中に入っていくことはできない。

 

遠くからオリヴァーを見守り、「いつの間にそんなに仲良くなったの?」と聞く。自分にはそんなこととてもできない、とでも言うかのように。

 

 

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そんなエリオの成長ぶりがよく分かるシーンがある。

オリヴァーと結ばれた後に出かけた先で、

自分から「喉乾いた?」と尋ねながら前を歩き、見知らぬ住人に「お水をくれませんか」と話しかけるのだ。

 

これが、⑴でも触れたエリオの注目すべき変化である。

 

 

 

さらには、そんな言葉が少なかったエリオが、「告白すべきか 命を絶つか」と考えた末に、オリヴァーに「沈黙が苦痛だ 話がしたい」とまで自ら伝えるようになる。これって物凄いことだと思うのです。

 

 

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「自信がない」と言っていた自分の殻にこもりがちだった彼が、自ら自分の考えや言葉を外に出したいという欲求を抱くようになることが。

 

 

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では、、具体的に何が彼をそんな風に変えたのか?と考えた時に

 

⑷「君の名前で僕を呼んで

 

に辿り着くわけです。

 

正直、この要素がなければ「単純に美しい純愛物語」で完結してしまっていたような気もする。

 

タイトルにもなっているくらいなのでオリヴァーがエリオに囁くこの言葉の意味を自己流で深掘りします。

 

 

 

 

①彫刻

 

まず、映画のオープニングや考古学の研究で印象的だった彫刻。

 

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「官能的で大胆すぎるともいえるカーブが見る者の欲望を誘発する」という感じのコメントをお父さんがしていた男性の彫刻は、

 

24歳という年齢で、まさに今、美しさの絶頂にいるオリヴァーのよう。

 

お父さんの言葉をそのまま当てはめれば、17歳という多感な時期にいて、自身の性的なエネルギーを持て余していて、なおかつ、それをどう処理したら良いのかもよく分からないエリオにとって、セクシュアリティをそのまま体現したようなオリヴァーが、誘発装置になったと受け取れる。

 

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更に彫刻でもう一つ印象的だったのが、フィールドトリップで海の底から発見したこの彫刻。

 

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スライドショーで見ていたものよりもやや若く、あどけないような雰囲気が残るこちらの彫刻は、一方でエリオを象徴しているのでは。

 

 

 

このフィールドトリップの前にエリオのやきもちのせいで何となく険悪な雰囲気だった二人は、この彫刻がきっかけで仲直りをする。

 

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この彫刻がバラバラの状態で見つかっていることにも注目で、「海の底に沈んでいた壊れて離れてしまっていたものが一つになる」=「結ばれるべき二人が二人の気持ちを通じあわせはじめる」ことの暗喩ともとれる。

 

さらに、この日「エリオ!」「オリヴァー!」と、互いの名を呼びあうシーンが挿入されていることも、のちの「君の名前で僕を呼んで」への布石。

 

 

 

モチーフとしてこのような彫刻が使われたことには、オリヴァーが「変化し続けながらも同じであるということ」と評したように、時代を幾度超えていっても、それが普遍的である、ということで「愛」と共通するからなのかな。

 

 

 

 

②エゴイスティックに自身を相手に重ねて追いかけるということ

 

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①でオリヴァーが美しさを全うしている、美をそのまま体現したような象徴的な存在だと説明したが、同時にそれは「今いる場所を過ぎれば衰えてゆくのみ」ということも意味する。

 

(ラストシーンのお父さんの言葉にも、「身体はのちに誰も見つめてくれなくなる」というものがある)

 

たまに見せるオリヴァーのどこか刹那的な視線も、自身でそのことを理解しているからこそなのでは。

 

だからこそ、自分よりも若い17歳のエリオに、どうにかして自身を重ね、求め、エリオにも自分自身にも縋り、最後の美しい自分としての恋愛をおそるおそる確かめながら噛み締めている様子。そんな感じがした。

 

 

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一方でエリオはというと、⑶で書いた通り、内向的で自信がない。友達もいるけれど、一人で何かに没頭するのが好き。

 

そんなエリオの前に現れたオリヴァー。社交的で明るく、誰にでも挨拶ができて、すぐに打ち解けられる。身体は大きく筋肉質で健康的。まさに自分とは正反対で、自分が欲しいものすべてを持っているような男。

 

憧れからくる嫉妬心で最初は反発しようとするものの、徐々に彼を欲し、同時に、エリオもオリヴァーに自身を投影するようになっていく。また、そうすることでエリオの内面やキャラクターも微妙に変化・成長していく。

 

 

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このシーンがまさにその象徴で、逆さに映った二人の横顔、そして囁かれる「Call me by your name and i'll call you by mine.」という言葉。そして、呟かれる「エリオ」「オリヴァー」という言葉。

 

二人が身体で交わることも勿論だけれど、精神的にも溶け合って一つにいくことが決定的に分かる。

 

互いに向かって自分の名を呼ぶこと。それは酷く利己的なことにも思える。

 

それでも、「parce que c'était lui parce que c'était moi (それは私だったから。それは彼だったから。)」という言葉のように、

お互いに「その人」しか自分のなかで欠けていたところに当てはまる存在はいなくて、

お互いがいてこそやっと自分が生きる世界に対峙できるようになるのだ、と考えられる。

 

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別れの汽車でオリヴァーを見送った後のエリオが暫く駅でひとり動けず、お母さんに迎えを頼まなければ帰れないほど沈み込んでしまっていたことも、

「一度ひとつに完成した自分の心がばらばらに引き裂かれてしまう」感覚を思えば頷けるし、私も一緒に汽車を見送りながら泣いた…。

 

 

 

 

他にも、「僕だけの場所だ」とエリオがオリヴァーを秘密の場所に案内することも、二人が融合してひとつになっていることを意味していると思う。

 

ここの草むらであの美しい初キスも起こったので。

 

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二人が最後に一緒にいった旅でも、ずっとお互いのことを自分の名で呼んでいたのも印象的。

 

 

 

 

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ちょうどエリオの髪で、実はオリヴァーの顔が見えていないということが、二人が二人で一人、ということをこのポスターからも読み取れるので、素晴らしいと思いました。

 

 

 

 

 

⑸エンディングについて

 

夏が終わり、オリヴァーが去っていき、冬になってハヌカの時期にかかってくるオリヴァーからの電話。

 

エリオは「なんとなく2年くらい続いてた相手と来年結婚するかも」とオリヴァーから告げられる。

 

電話越しに、エリオはオリヴァーに「エリオ」と呼ぶと、オリヴァーは「オリヴァー」「何一つ忘れない」と告げる。

 

 

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夏の間のオリヴァーの言葉に、「君には何一つ後悔してほしくない」というものがあったが、これはこのことを暗示していたのかもしれない。

 

 

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お父さんの言葉の、「知らぬ間に心が衰えてしまう」ように、若い、アプリコットのような時期が過ぎゆくうちに、世のいう常識などにみずみずしい心が殺されていってしまうことを。

 

 

こう考えると、この物語は 

 

・お父さん「経験することなく、諦めてしまった人」

・オリヴァー「経験し、諦めてしまった人」

・エリオ「経験し、これからを選べる人」

 

という三つの立場からも考えられるのです。

 

 

 

 

それにしても、あの長尺のワンカットエンディングは衝撃的に美しかったなぁ。

 

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⑹その他

 

・彼の口癖の「later」って横柄だよねとエリオがイタリア語でいうが、それに対してお父さんは横柄だとは思わないな、とあえて英語で答える。それに拗ねながらも英語でかえすエリオ…など、家族間で交わされる言葉の豊かさ!純粋に感動したし、会話の内容以外にも、どの言語で話すかということも各シーンを彩る要素として確立していた点が良かった。

 

・街を案内したときにチラッとエリオが見ていた青いバスで二人が後に旅に出ることになったことも気付いて嬉しかった。

 

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⑺まとめ

 

この人しかいないのだという相手に出会い、心も身体も愛して、それでもまた相手を求めて、更には互いに自分を相手に重ね合わせて呼び合う。

 

それがどんなに完璧でも、自分が「自分」を手に入れることは絶対にできない。手放してまた自分ひとりとして歩いていかなくてはいけない。でも、「何一つ忘れない」。それは「変化し続けながらも同じであるということ」。

 

だからこの映画の終わり方はとても潔くて美しかった。

 

こんな相手に出逢ったものなら、言葉を発したいと思っても、名前だけでも十分なのかもしれないな。

 

一人の少年と一人の青年の、そんな美しい過程をこの映画には観た。

 

 

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おしまい

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鈴木です 「婚約者の友人」

 

フランソワ・オゾン監督の「婚約者の友人」のあらすじ、感想、個人的な考察です。

 

 

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※ネタバレあります。また、時系列や台詞など、もしかしたら違うところもあるかもしれません。。

 

 

 

 

・あらすじ

 

 

時代は1919年のドイツ。戦後の傷が癒えぬこの国で、婚約者を戦争で失ったアンナも悲しみ嘆く大衆の1人。

 

映画は死んだ婚約者のフランツの両親と共に暮らしている彼女が、市場で今は亡き夫のお墓に供えるための花を市場で買い、墓地に向かうシーンから始まる。

 

 

墓に着くと新しい花が手向けてあることに気付き、管理人に誰だったのかを尋ねると「フランス人だ」と憎らしげに伝えられる。

 

次の日も墓に向かうと、彼女はフランツの墓前で涙を流す見知らぬ男を目にする。

 

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その後アンナの家を訪ねてきたアドリアンと名乗るフランス人の男は、確かに昨日も今日もフランツの墓にいた人物であり、自分はフランツの友人だったと話す。

 

 

アドリアンがフランツとパリで共にルーブル美術館に出かけ、2人して熱心にマネの絵に見入っていたという話や、アドリアンがパリ管弦楽団で培ったバイオリンの演奏技術をフランツに教えたのだという話を聞き、フランツの両親とアンナの心は少しずつ悲しみから解放され、癒されていく。

 

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その後も舞踏会や海への散歩に一緒に出かけ、アドリアンとアンナは親しくなるものの、とある夜アドリアンはフランツの墓前で今までの話は全て嘘で、自分こそがフランツを戦場で殺した人物であり、自分はただ許しを乞いにここまで来たのだ、自分は明日の汽車でパリへ戻るとアンナに告げる。

 

アドリアンはその前に自分からフランツの両親にも真実を話したいと願い出るが、アンナが私が代わりに全て伝えると説得する。しかし、彼女は2人には「彼は母の急病で帰ることになってしまった」と説明しただけで、フランツの最期とアドリアンの嘘については触れていないのだった。

 

そしてアドリアンはパリへと帰っていった。

 

 

アンナはその後アドリアンにあなたのことをもう許すという手紙を出すも、手紙は届かず住所不明で戻って来てしまう。

そこでアンナはアドリアンを追いパリへ向かい、苦労の末彼が母親と共に暮らす大きな屋敷に辿り着く。

 

再会を喜び散歩に出かける2人。アンナは フランツの両親ももうアドリアンのことを許していると嘘を伝えると、「一番嬉しい言葉だ」と喜ぶ。

ドイツで彼がついた嘘について尋ねると、「そうだと思っていた方が幸せなこともある」とアドリアンは言うのだった。

 

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散歩から屋敷に戻ったアンナは、屋敷で夜開かれるパーティーで歌う予定だというファニーを紹介される。ファニーとアドリアンとの仲睦まじい雰囲気を察したアンナは軽く失望するも夜のパーティーに参加する。しかし、パーティーに参加したことで「自分の居場所がない」と確信してしまった彼女はその場から逃げ出してしまう。

 

追いかけて来たアドリアンは去ろうとするアンナを引き止めるも、口付けを迫られると「ごめん」とだけ言い残し、部屋を去っていってしまう。

 

 

翌朝アドリアンの運転でドイツ行きの汽車が発つ駅まで送られるアンナ。アドリアンはファニーは幼馴染であり、彼女と結婚すれば母親も喜ぶ、と話す。

 

駅に着くと一ヶ月後に控えたファニーとの結婚式に是非来て欲しいとアンナに言うが、「無理よ」と断るアンナ。暫く見つめあったあと、2人は静かに唇を重ねる。「もう手遅れなの」と言い残し汽車に乗り込むアンナ。遠く小さくなっていくアドリアンの影…

 

 

 

 

 

 その後フランツの両親に届くアンナからの手紙には、アドリアンに会えたこと、彼が元気なこと、パリ管弦楽団に復帰したこと、そして、暫くはまだパリに留まるということが書き記されていた。

 

ラストは、ルーブル美術館でマネの例の絵の前で、見知らぬ男性に「この絵が好き?」と尋ねられたアンナが、笑顔で「好きよ」と答えるシーンで締めくくられている。 

 

 

 

 

 

 

 ・考察

 

⑴モノクロ、カラーの使い分け

 

何と言ってもこの作品の見どころの一つでもある、色の使い分け。

カラーだったシーンをざっと思い出してみたところ、

 

アドリアンと散歩したとき、アドリアンにアンナが戦争の傷のことを聞いたとき、アドリアンとフランツがルーブル美術館にいったとき、戦場でアドリアンがフランツを殺したとき、アドリアンがフランツのバイオリンを弾いたとき…

 

と、つまり「アドリアンを通してフランツのことを思い出しているとき」に画面に色が宿っていたように思える。

 

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さらに忘れてはいけないのはラストのマネの絵を「好きよ」と答えるシーンもカラーだったことなのですが、、これについては⑸にて後程述べます。

 

 

また、印象的だったのはアドリアンとの舞踏会のシーン。ここでは、華やかそうなのに全くカラーにならない!それはアンナがあの舞踏会の間はすっかり求婚者はおろか、フランツのことを忘れてしまっていたからだと考えれば自然。つまり、あの舞踏会でアンナは「婚約者の友人」に決定的に恋してしまったのだと。

 

 

 

 

⑵ アンナとフランツは本当に愛し合っていたのか?

 

何も情報のない冒頭のシーンで最初に観客が目にする、白い花を買い墓地まで歩みを進めるアンナの姿は、凛としていて、そこにはどこか無駄なものが削ぎ落とされた心地よさのようなものすら漂っているように感じた。

 

さらに、フランツの両親が感情や表情を通しフランツの喪失を体現する場面はあるものの、アンナのそれは単調すぎるように感じられた。

 

また、アンナがパリへ旅をした際に「フランツが泊まっていた」という宿は娼婦宿のような場所であったことから、彼が浮気していたことも予測できる。

 

つまりは、結婚前で既に2人の関係は乾いたものになってしまっていたことが垣間見られる。

 

 

 

 

 

⑶「青い顔をして仰向けになった男の絵」

 

アドリアンは多くの嘘を語るが、その中に一つ紛れ込んだ謎がこの言葉。

 

ルーブル美術館をフランツと訪れた際に、僕ら2人でマネの青い顔をして仰向けになった男の絵に見入っていた、と話したアドリアン。後にアンナがこの絵を目にした時、絵のタイトルが「自殺」であったことを知り、驚く。

 

 

 

 

 ⑷「自殺」から読み取れること アドリアンの場合

 

ではこの「自殺」が何を意味するのか。

アドリアンから考えてみるとすると、「自殺」とは彼にとっては「自分の意思を放棄する、殺すこと」なのではないか。

 

それは、アンナに自分がついた嘘に対して語った「そうだと信じていた方が例え嘘でも良いことがある」という言葉や、「ファニーと結婚すれば母親も喜ぶ」という言葉から、彼が彼自身の意思で生きること、選択することを諦めていることから推測できる。

 

さらに、皮肉なことに唯一彼が意思を持って行動した末に手にしたものは、フランツに銃口を向け、引き金を引くこと、そしてフランツを殺すこと=全ての終わりであり、何の始まりでもなかったのだったのだから。

 

 

そこで自分の体の下に発見した、死んで青い顔をした仰向けになり横たわるフランツの姿。それはまさにマネの「自殺」の構図と同じだった。

 

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だからアドリアンは、自戒を込めてフランツに関する「嘘」の中に「事実」を紛れ込ませたのではないか。

 

そもそも、あの嘘が彼にとっては精一杯の本当だったはず。(彼の不安定さは「精神病院にいた」という自らの発言からも分かる)

 

 

 

 

⑸「自殺」から読み取れること アンナの場合

 

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 ⑵でも述べたように、どこか違和感のあるフランツとアンナの「愛」。

 

フランツについては正直情報が少ないので確信はないが、アンナに関しては、二つ大きな決め手がある。

 

一つ目に、アンナもアドリアンの「そう信じていたほうが幸せなこともある」という言葉を無意識的に信じ、実行している点。彼女の場合なら、「フランツを心から愛していたとする方が幸せ」と。

 

婚約者の両親に、婚約者の死についての嘘をついただけでなく、その後もパリで起こったこと、そして恐らくこれからの滞在で起こることも、全て彼女はかなしい嘘で塗り固めていく。

 

フランツの死を起点として「嘘」に頼るしかなくなったアンナは、「真実」、そして「フランツ(への愛)」に対して「自殺」した=「完全にそれを手放し、諦めた」も等しいのでは。

 

 

 

二つ目は、言うまでもなくラストシーンで「自殺」の絵を笑って「好きよ」と答えるところ。

 

このラストシーン、笑って自らの「嘘」や「諦め」の象徴であるこの絵を肯定する彼女には、つまりはフランツと自分は完全に決別したのだという誇りが感じられた。

 

このシーンがくっきりとしたカラーなのもポイント。フランツのことはしっかり覚えているし、忘れもしない。それでも自分はそれを自分で殺して、別れて、自由に生きてゆくのだという意思が感じとられる。

 

 

 

 

⑹「意思」のめざめ

 

⑷⑸で散々アドリアンとアンナの「諦め」について語りましたが、この物語の核は、やはり何と言っても「そんな諦めた者同士が出会ってしまい、意思をもう一度取り戻す」ところだと思うのです。お互いが好きなのだと気付いてしまうところ。

 

そう考えれば考えるほどアドリアンとアンナの涙の意味も深まるし、涙を流すほどに恋い焦がれた相手を見つけたときには、また「諦める」しかないのだと気付かされたときに、まさに汽車の発車前に2人がそっと唇を重ねるときに、この物語は、とてつもなく美しかった。

 

 

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…と、思うがままに書いてみました。

 

期待以上に読解の仕様がある作品ですし、これを書ききった今、それだけに色々な人の感想を読んでみたいと思います。

 

それにしてもアドリアン役のピエール・ニネは画面にいるだけで納得してしまうような美男子です。

 

アンナを演じたパウラ・ベーアは、モノクロでも伝わるほどに瞳が澄んでいて感激。アドリアンへの控えめながらも遠慮のない目線がとても良かった。

 

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おしまい

 

 

鈴木です

 

良人 と書いて おっと、 とは誰が最初に定めたんだろう。とても不思議な言葉だと思う。

 

 

最近では本などでしか見かけないので、あまり耳にすることはない言葉ではあるものの。

 

 

 

 

 

そもそも、2人しかいない夫婦のうちの男性を「良人」と呼ぶことで、それはいわゆる男性の「大黒柱」的要素は肯定しつつも、

 

同時に女性、つまりは妻の方をほぼ必然的に「良くない」ように見立ててしまうことが怖い。

 

とても不自然でもある。

 

 

 

しかも、そのおかしさを感じさせないくらいに自然に使用される「良人」という言葉は、その存在感をもって無意識的に女性の行動と、女性に対する社会の許容範囲を制約できてしまう。

 

その言葉が生まれてから今までも、ずっとその効力は女性を支配しているようにも思える。

 

 

 

 

 

例えば多くある不倫報道、

不倫もまた2人でするものであるものの、多くのケースで人々に敏感にセンサーされて、非難の対象となるのは、女性。

 

しかも、着目したいのは、この不倫報道で女性が叩かれるとき、同性である女性も容赦ない視線を不倫した女性に対して浴びさせる。

 

これには、「同じ女なのに、あなただけがその不徳を許される訳がない」という掟破りの相手への一種の羨望の眼差しも感じられる。

 

 

 

 

 

 

こうして「良人」的概念から生まれた女性に対するありとあらゆる視線、呪縛のような制約は、目に見えない力として今でも色濃く残っている。

 

いつ女性はそれから解放されるのか。。

 

おそらく私が生きている間では、ないと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

すっごいフェミニスト的でしかも中途半端な大学生のような稚拙な文章ですが、、思ったこと今日のメモ。

 

 

 

「良さ」と「良くなさ」はどちらかが存在すれば相対的にもう一方も存在するわけで。

 

 

何かを生み出す時にはそれを覚悟して、と思いたいものの、そこまでガチガチになって生み出すものが有意義なわけはなく。。

 

 

言葉の難しさはどうしようもない!

けれども魅力的だね。

という話でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

おわり。

 

 

 

 

鈴木です

ジムに通い始めて早1ヶ月。

 

ランニングマシンを愛用中。

 

ジムにあるランニングマシンのどこが良いかって、ふたつあって、、

 

 

 

 

 

① テレビがついている。

 

最初見たときは驚きました。普通なのかな。

字幕つけて熱中しているとあっという間に30分経ってたりする。

 

今日も「世界の怖い夜」を観てきました。

(敏感になっているので隣の人の動きにいちいちビクついた)

 

 

 

 

 

そして大事な

 

②張り合う相手がいる。。

 

これ、わかる人にはわかるし、わからない人にはわからないと思うんですけど。

 

隣にいるこの人より長く走ってやる!

 

とか、

 

この人のペースより早く走り続ける!

 

とか、その日の目標が生まれるし、

 

相手が隣にずっといる限りはその戦いから逃げる訳にはいかねぇ!

っていう信念が生まれる。(笑)

 

 

 

結構この相乗効果でジムって案外成り立っているのではないか。

 

 

そんなことを考えた夜でした。

 

 

 

 

 

おしまい。

 

 

 

 

 

鈴木です しごとバーのはなし

大学2年生の頃に、しごとバーとかいう良く分からないイベントに参加しました。

 

 

 

普通の就活に負けたくない!

 

 

 

と力んでいた当時。

 

何かしら違う流れを自分なりに掴もうと必死でした。

 

 

 

「社会人でも社会人になる前の学生でも、とりあえず集まって語ってみようぜ」

 

という趣旨のもので、イベントとは言いつつも言ってしまえば所詮ただのバーはバーであり、司会・進行とかがいるわけでもない物凄くフリーなそれでした。

 

 

 

そこで何人かと話をしたのですが、そこに物凄く変な男がいました。

 

 

 

彼曰く、「自分はもう内定持ってる!」

 

というので何かと聞くと

 

「農業!」(そして自分で言って自分で爆笑する)

 

と返され、ああーこの人が作った野菜は食べたくないなぁと考えながら喋らせておくと、

 

 

自分は世界を旅してきて、いわゆる普通の仕事は必須ではないと分かった。全てはラブアンドピース。自由なんだよ皆があんなに欲しがってる内定だって持ってる。羨ましいでしょ??

 

 

 

と散々。

 

「女友達だから!」と紹介する隣りに座る女性といちゃつきはじめて辟易としていたところ、

 

突然

 

 

 

 

「でもわかる?僕は明日にでも君を殺そうと思えば殺せるんだよ。」

 

 

って言われて。 

 

 

 

その時いきなり農業の内定の話だとかラブアンドピースだとかボブディランリスペクト!とか全てが説得力を持った気がして、何だか物凄く悔しくなって。

 

 

 

席を替えてエレガントなお姉さんと暫くお話し、「このひとは波長が合うな〜さっきの意味不明な男とは大違いだ!」と内心どこか安心しつつ喜んでいたものの、今思い返せばこのお姉さまの話の大半は私への営業だったなぁ。

 

 

 

 

挙げ句の果てには何を勘違いしたか「すごいタイプ」と言う天パの自称カメラマンのお兄さんにターゲットとして定められる気配を察し、

 

その前に駅まで走って逃げて帰ったのでした。。

 

 

 

 

 

そんなこんなで何も実りはないような「しごとバー」でしたが、

 

数年経って思い返してみれば当時とは違うように色々感じられるのだなぁ。

 

ということを実感したのでした。

 

 

 

 

おしまい

 

鈴木です

 おじいさんって良く何色とも形容し難い色の洋服着てる気がする。

 

 

ウグイス色とも言えない絶妙に黄土色が混ざった黄緑色とか。

 

 

ピンクじゃないけどピンクなんだよなー

でもピンクとは呼びたくないんだよなーーって色とか。

 

 

 

 

 

 

休日で久しぶりに地元を朝散歩して思ったことでした。

 

 

 

おしまい。

 

 

鈴木です

電車の座席って冷静に考えると物凄い狭さで、

 

 

 

例えば食堂やカフェ、病院の待合室、映画館、、

 

 

どこをとってもあそこまで隣の人と密接する座席ってなくて。

 

 

 

 

あんなに他人とピタッとくっついて座るのって、結構苦痛だし、

 

そもそも日本人の距離感としてあれは過剰なくらいに近く設定されてると思うものの、、

 

それでも疑問を感じず毎日電車の座席だから、として座れることって不思議だ。  

 

 

 

 

小さい頃から「電車はこういうもの」

 

っていうように、当たり前が刷り込まれるってこうして起こるのだな、と感じました。

 

不思議です。

 

 

 

 

おしまい。