鈴木です 「生きてるだけで、愛。」
タイトルが何となく気にくわないなと感じて(今思えばそんな理由で敬遠して本当に危ない、惜しいことをするところだった)、気になりつつも観ないでいいやと思ってたものの、お勧めされたので観てみたら本当に良かった…
感想メモ
※この先ネタバレ注意
こんな風に、世間一般の「強くない」人を繊細に守れる映画を作ってくれてありがとうと。思った。
バイト先でのウォッシュレット のくだりは個人的に、「リップヴァンウィンクルの花嫁」の七海が清掃のバイトをやめるきっかけになった、陰口を耳にしてしまったシーンを強く思い返しながら観た
何が共通してると感じたかというと、
日々の会話や信頼関係はきっと主に共感することで成り立っているものの、誰かと感覚や感情を心から純粋な気持ちで共有できることって実はそれほど簡単なことではない。
だからこそ「上部」や「お世辞」を駆使して上手く成り立つ関係だって事実多くある訳で。
みんなちゃんとそのことには気づいてて、だから多くの人はそれをいかに自然に自分の中に取り込んで、自然に使いこなせるようになるか、っていうことを、多分寧子が全身の毛を剃り落としたという学生の時期ぐらいから、重きを置いて学んでいて。
一方で寧子はそうやって自分を偽っていく術を一切身につけずに大人になるわけだから、津奈木と出会った飲み会でもベロンベロンに酔っ払っても周りの女の子たちにはろくに心配もされないで置いていかれちゃう。
寧子の言葉を借りれば、寧子は「見つかっちゃう」から。
だから、カフェバーのウォッシュレット のシーン、
そんな寧子にしてみればさっきまで同じテンションでちゃんと皆笑っていてくれたのに、ウォッシュレット の話になったら一気にそれまでに上昇していたものがサーッと引いていく感じ、一気に現実に引き戻される感覚、それがもう痛々しいくらい現実的だ。
「ああ、やっぱり見つかっちゃったな」っていう心の声が聞こえてきそうなくらい
リップヴァン…では七海がその違いを「見つけてしまう」側ではあったものの、両者が自覚している社会から見たときの自分の弱点や、普通とされる意思疎通を図ることの苦痛さのようなものは共通していると思う。
(で、私は個人的にこういう描写にめちゃくちゃのめり込んでしまう。。好きというか、その緻密さに感心するし惚れ惚れする)
さらには「生きているだけで、愛。」では
「家族のようなものだから」と寧子に救いの手を差し出してはいるものの、彼女に対し根底からの理解がないカフェバーの人たちと、
津奈木が後に自殺者を生み出してしまうことになる程“ゲスな”記事の存在を認知しつつも何もしなかったこと、、
実は性質だけ見れば両者とも同一なのだというところが1番苦しい。
トドメに、ラストで寧子は津奈木との「理解のできなさ」にも本当に気付いてしまうものだから、こんなにも的確で苦しいこと、なかなか無いんじゃないかなって。
カフェバーの人たちには悪気はないし、むしろ彼らなりの「親切さ」を最大に引き出した上で寧子には接しているし、“ゲスな”記事が世に出るのは、数字が獲れる、つまりはそれを求める人々が多くいるからだし、、
…と、考えるとこの世の中のどうしようもないことばかりに寧子は苦しめられているのではないか?ってふと思う。思いますよね
「けど、そういうことでいちいち傷ついてたらやってられないでしょ? 生きてけないでしょ?」
…こんな風に言い聞かせて切り替えられ「ない」人のための話だ。そう確信してからは、もうタイトルで敬遠してた自分を本当に恥じた。。(2度目)
津奈木が「頭から血を流しながらも走る寧子の着ていた青いスカートが揺れて綺麗だった」と言ったように、
寧子が脱ぎ捨ててゆく身につけているもの、全部ちゃんと拾いながらも全力で寧子を追いかける津奈木の姿が私はたまらなく美しいと思った。
「強くない人たち」が寄り添うのを「自分たちには遠い、あるいは理解のできない弱い人間同士が傷を舐め合っている」と解釈する人もいるけれど、私は寧子や津奈木のような繊細さを持つ人の健闘ぶりを讃えたいよ
ひとつだけ惜しいのは安藤さんかな。。シュールな面白さはあったけれど、全体のトーンに対してちょっと浮遊感がありすぎた気もする。が、それを考慮してもかなりの秀作でした。
おしまい